日本の製紙工業は、明治維新を契機として始まり、もっとも早く紙の企業化を考えた人は大阪の百武安兵衛といわれる。
百武は1870年10月、貨幣制度、銀行制度等の視察のため渡米した時の大蔵少輔伊藤博文の一行に、民間実業家の代表として加わり、その途上製紙機械を直接輸入して帰国した。
そして合資により洋式製紙業を企てたが、その計画は機械が到着しないうちに百武の破産によって挫折した。その後この計画は後藤象二朗らの経営する蓬莱社に引き継がれ、大阪中之島に工場が設けられる事になるが、百武が注文した長編抄紙機は、蓬莱社にその譲渡がきまった翌年の1874年1月に日本に到着した。これが日本で最初の洋式抄紙機なのである。
1872年には旧広島藩主浅野長勲が、イギリス人ウォートルスの助けを受け、東京日本橋蛎殻町に工場を設け、有恒社と称して1874年6月に開業した。
1873年、ときの京都府知事槙村正直が皇室御下賜金の一部をもって京都の梅津にドイツ人レーマンの指導で工場の建設をはじめ、パピール・ファブリクと称して76年1月に操業を開始した。このあと1874年、東京では林徳左衛門がアメリカ人ドイルとの共同出資で、東京三田小山町に工場を設け、三田製紙所として翌75年開業し、74年1月には、得能良介が紙幣寮寮頭に任せられ、紙幣寮内に製造所を設ける計画をたて、75年工場建設に着手し、翌76年2月に竣工した。
これが後の印刷局抄紙部で、79年に初めて抄紙機をすえ付けたが、乙れは三田製紙所の抄紙機を同局機械部が模造したもので、わが国における最初の国産機である。
このようにして1872年~76年頃までは外国の洋紙製造業の創業時代であり、派遣された有識者は、帰朝するやまず洋紙事業の将来性に着眼し、文化の発展の推進力は洋紙製造の発展にあると説いたという。
東洋経済編「紙・パルプの実際知」より
日本の製紙工業は、明治維新を契機として始まり、もっとも早く紙の企業化を考えた人は大阪の百武安兵衛といわれる。
百武は1870年10月、貨幣制度、銀行制度等の視察のため渡米した時の大蔵少輔伊藤博文の一行に、民間実業家の代表として加わり、その途上製紙機械を直接輸入して帰国した。
そして合資により洋式製紙業を企てたが、その計画は機械が到着しないうちに百武の破産によって挫折した。その後この計画は後藤象二朗らの経営する蓬莱社に引き継がれ、大阪中之島に工場が設けられる事になるが、百武が注文した長編抄紙機は、蓬莱社にその譲渡がきまった翌年の1874年1月に日本に到着した。これが日本で最初の洋式抄紙機なのである。
1872年には旧広島藩主浅野長勲が、イギリス人ウォートルスの助けを受け、東京日本橋蛎殻町に工場を設け、有恒社と称して1874年6月に開業した。
1873年、ときの京都府知事槙村正直が皇室御下賜金の一部をもって京都の梅津にドイツ人レーマンの指導で工場の建設をはじめ、パピール・ファブリクと称して76年1月に操業を開始した。このあと1874年、東京では林徳左衛門がアメリカ人ドイルとの共同出資で、東京三田小山町に工場を設け、三田製紙所として翌75年開業し、74年1月には、得能良介が紙幣寮寮頭に任せられ、紙幣寮内に製造所を設ける計画をたて、75年工場建設に着手し、翌76年2月に竣工した。
これが後の印刷局抄紙部で、79年に初めて抄紙機をすえ付けたが、乙れは三田製紙所の抄紙機を同局機械部が模造したもので、わが国における最初の国産機である。
このようにして1872年~76年頃までは外国の洋紙製造業の創業時代であり、派遣された有識者は、帰朝するやまず洋紙事業の将来性に着眼し、文化の発展の推進力は洋紙製造の発展にあると説いたという。
東洋経済編「紙・パルプの実際知」より