欧州人の度肝を抜いた鼻紙

花咲く町人文化が、紙をふんだんに消費していたころ、ヨーロッパではどうであったかを物語るエピソードを一つ紹介しましょう。

奥州仙台の伊達政宗が、支倉常長をヨーロッパへ親善使節として派遣したのは慶長18年(1613年)でした。一行はたしなみとして、鼻紙を十分に用意して出発したのですが、これが彼の地で意外な反響を引き起こしました。彼らが無造作に使い捨てる鼻紙が、あまりに上質なのに人びとはびっくりしたのでした。

ローマでもスペインでも、町の人は使節団のぜいたくさに度肝を抜かれたといいます。

1615年にフランスの地中海に面したサン・トロベスという町を訪問したときなどは、団員が使い捨てる鼻紙を、市民が先を争って手に入れたという、うそのような本当の話があちらの記録に残っています。

1615年とは元和元年、日本では大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡した年で、いわゆる元和偃武による天下泰平の初めての年でした。

そのころのヨーロッパでは、30年戦争の前夜にあり、製紙はまた古布などを原料とした旧式の溜漉き法に頼っていました。質のよくない貧弱な紙が、高価なものとされた時代でした。

現在でも、日本の家庭紙の消費量は、アメリカについで世界第2位であるといいます。